ロレックスはアメリカ市場を見据え、“ル・マン”ではなく“デイトナ”を選んだ。

ロレックスの歴史において、なぜコスモグラフは“ル・マン”ではなく、“デイトナ”となったのか。その由来はアメリカ・フロリダ州のデイトナビーチにあるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイとの結び付きを強めたことにある。

ロレックスはコスモグラフ発表以前の1930年代から数々のクロノグラフを手がけてきた実績があるが、この分野では長年苦戦を強いられていた。1963年のRef.6239の登場によって、ロレックスのクロノグラフは大きな方向転換を迎える。当時のアドバタイジングで確認できるル・マンの名を冠したモデル名、ロレックスでは初のタキメータースケールを搭載したベゼルは、華やかなカーレースシーンへの参戦表明と言っていいものだった。そしてもうひとつ言えることは、このいわゆるル・マンの発表時において、ロレックスとル・マン24時間レースとのあいだには直接的な関係はなかったと思われるが、それから数十年後、ル・マン24時間レースの勝者にコスモグラフ デイトナが贈られるようになったことは、実に興味深い事実であると思う。

「未来とは、今である」。目の前のことに全力を尽くすことで未来は開ける。今の頑張りが未来を創るという意味を込めたアメリカの文化人類学者のマーガレット・ミードの名言だが、まさにロレックスのたゆまぬ努力は確かな結果を残したのだ。

前述のとおり、1964年からロレックスは世界最大級のマーケットであった北米市場に向けて、文字盤に“DAYTONA”のプリントを入れたRef.6239を投入し始めるが、この戦略がマーケティングとして功を奏して、コスモグラフは成功への道筋を歩むことになる。時計、クルマ、ファッション関連を中心に、古い雑誌やポスターなどを取り扱うアド・パティーナの創業者であるニック・フェデロヴィッチ氏による、ル・マンおよびデイトナに関するアドバタイジングへの考察は以下のとおりだ。

「ル・マンの広告が最初に打たれたのは1964年ごろだと推測しますが、この時点ではデイトナとは呼ばれていなかったことは確かだと思います。翌1965年の広告から正式にデイトナというモデル名が記載されるようになりました。古いロレックスの広告を調べていくにつれて解明できたことは、掲載されている時計の年式と広告が打たれた年は一致しないことです。私たちのようなコレクターやマニアは、時計のディテールにこだわりますが、当時の広告において厳密な表現はさほど重要ではなく、そのモデルの主立った特徴を見せることに重点を置いていた傾向が見られます」

 時計の説明よりも、むしろカーレースやスポーツカーの写真を巧みに使いながらイメージを刷り込むことで、ロレックスはレースの世界との距離を縮めたのだ。

 このようなブランディングと並行して、1965年に登場したねじ込み式のクロノグラフプッシャーを初採用したプロトタイプ Ref.6240の登場をきっかけに、コスモグラフは段階を踏みながら機能性を高め、防水クロノグラフへと変身を遂げて独自路線を追求していく。

1966年に打たれたロレックスの広告。サブマリーナーならダイビング、ロレックスならスポーツカーなど時計とマッチした背景を使うことで、それぞれの世界を写真を使って表現した。

過酷なレースで育まれたレーシングクロノグラフ
 北米市場に迎えられたコスモグラフ デイトナは、ここから新たな物語を紡いでいくわけだが、これに関連する話題とともに、ロレックスならではの防水クロノグラフが完成されるまでのヒストリーもル・マンと同様、極めて興味深い。

 コスモグラフ デイトナが台頭した1960年初頭、カーレースは新たな時代を迎えて、かつてないほどの熱気に包まれていた。この時代のレーシングカーへの造詣が深く、希少なクラシックカーを販売するコーギーズのオーナーである鈴木英昭氏に、1960年代のル・マン24時間レースについて話を聞くことができた。

ル・マン24時間レースの競技はフランス中部にあるル・マン市のル・マン24時間サーキットで行われていた。写真は1925年から始まったル・マン式スタートの様子。シートベルトを閉めないドライバーが多かったため、1971年から通常のローリング式スターティングを採用するようになった。

デイトナ24時間レースは、ル・マン24時間レースの形式を踏襲しているが、高速オーバルコースの特性に加え、途中に組み込まれたテクニカルセクションが存在することからマシンやドライバーにかかる負担の大きいレースである。バンクではマシンに外方向と下方向でのGがかかることからサスペンションのセッティングにも苦心したという。

「この時代は、空気抵抗の測定精度が向上したことで、レーシングカーのデザインが劇的に変わります。ル・マン24時間レースでは、フォードがフェラーリを買収しようと試みたことから両社の対立が始まり、1960年から1965年までフェラーリが6連勝を飾る一方、フロントエンジンからミッドシップエンジンに切り替わり、戦力を増強。1966年はフォード GT40が初めてフェラーリを打ち負かして4連勝しますが、1970年には徐々に実力を高めてきたポルシェが初勝利します。1969年からレースで使用したポルシェ 917を見ればわかるように、レースの世界では当然のこととして認識されていますが、かつて大活躍したフェラーリ 250TR(テスタロッタ)のようなデザインはこの頃には一切見当たらなくなります。アメリカにおけるレースシーンはというと、1962年からデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開始されたデイトナ24時間レースは、まだ知名度は低かったのですが、レースの報酬が高かったことを理由に、ヨーロッパから多くのレーサーが参加するようになりました」

 同じ時代、レースの世界を走り始めたコスモグラフ デイトナにおける進化の過程はレースに相通じるものがある。苛烈を極めたデイトナ24時間レースを耐え抜くためにレーシングカーはスタイリングを洗練させ、スペックを高めていった。そんなレースにふさわしいクロノグラフとしてコスモグラフ デイトナに求められたのは耐久性を高めること。特に当時のクロノグラフ全般の弱点であった防水性能の向上だった。1965年に登場したRef.6240はプロトタイプのねじ込み式クロノグラフプッシャーを採用し、1969年から登場した(1970年、71年とする説もある)Ref.6263は、それを正式に採用したモデルだ。12時位置のプリントの2行目には、防水性能を示した“OYSTER”の文字が加わる。このRef.6263の製造が1989年まで続いたことからもクロノグラフとしての信頼性の高さがうかがえる。

 さらなる完璧さを求めたロレックスは、40㎜径のオイスターケースにリューズガードを与え、初の自動巻きクロノグラフムーブメントとなるCal.4030を搭載したRef.16520を1988年に発表する。文字盤の2行目のプリントには、“OYSTER”のほかにデイトナ初となる“PERPETUAL”の表記が入る。このアップデートの結果、コスモグラフ デイトナはクロノグラフという複雑機構でありながら、そのほかのプロフェッショナルモデルと同等クラスの防水性能や耐久性を手に入れた。もうひとつ、コスモグラフ デイトナとカーレースの結び付きを考察するうえで、俳優ポール・ニューマンの存在はやはり欠かせない。ご存じのように、レーシングドライバーとしても活躍した彼の腕には手巻きのコスモグラフ デイトナがよく巻かれていた。そのため彼が身につけていたエキゾチックダイヤルと呼ばれる文字盤が入るコスモグラフ デイトナは、のちにポール・ニューマン モデルと呼ばれるようになるわけだが、その人気は衰え知らずで現在も価格の高騰が続いている。

 つまるところ、カーレースの世界や第2次世界大戦後にアメリカの好景気が絶頂を迎えていた北米市場に勝機をみいだしたロレックスのマーケティングは、結果論として正解だったわけだ。歴史に“もしも”はないが、ロレックスがデイトナではなく、ル・マンへの道を目指し続けていたとしたら、コスモグラフと名付けられたクロノグラフの運命は、今とはまったく違う道を歩んでいたかもしれない。

ヴィンテージロレックスの頂点に立つ手巻きデイトナ。

ヴィンテージロレックスには謎めいたモデルが非常に多い。オークションハウス、熱狂的なコレクター、有力なヴィンテージウォッチ専門店らの熱心な研究によって、徐々にその真相が解明されている。ポール・ニューマンダイヤルの人気に支えられ、“キング・オブ・クロノグラフ”として市場に君臨するコスモグラフ デイトナの手巻き時代のリファレンスも例外ではない。Ref.6240の文字盤に“ROLEX”とだけ表記される通称“ソロ”がその好例で、不確定要素が多いことから数年前と比べて価格が落ちている。それどころか現在では、ソロダイヤルはRef.6238に入るという話が有力視されているそうだ。対照的に人気が安定しているモデル、評価が上がり続けているモデルというのも存在している。ここ最近のオークションでは、バゲットカットのダイヤモンドベゼル、ダイヤモンド&サファイアのパヴェダイヤルを備えたRef.6270が日本円にして約5億6000万円で落札されたことは記憶に新しい。

なかでも最初期型のRef.6239、上の古いアドバタイジングに掲載された“ル・マン”と呼ばれるモデルは、コレクターたちの研究によって“再発見”されたことで注目されるようになったと言っても過言ではない。2013年にHODINKEE創業者のベン・クライマーはRef.6239のファーストモデルに関する記事を執筆しているが、当時のコレクターたちの認識では、変わったディテールを備えてはいるものの、デイトナ表記のない最初期型モデルという程度。ごく一部のコレクターがその存在を知っているくらいであり、今ほど注目を集めるようなものではなかった。2017年10月にフィリップスがコスモグラフ デイトナをテーマにしたオークション『ウィニングアイコンズ』を開催したが、ヴィンテージロレックスの世界でル・マンの存在が知られるようになり、コレクターたちがざわつき始めたのは、このオークションからさかのぼること数年前の2015年ごろだったと記憶している。とある雑誌の取材を通じて、国内屈指のヴィンテージロレックスのメガコレクターが所有する実機を初めて見たのだが、華やかなポール・ニューマンダイヤルとは真逆をいくシンプルなデザインに筆者の心は動かされ、のちにRef.6239を購入するきっかけになった。非防水のポンプ型クロノグラフプッシャーを装備したおよそ36.5mm径のケースは、ねじ込み式の防水クロノグラフプッシャーを採用したRef.6263などのモデルとはひと味違う魅力があったのだ。

『ウィニングアイコンズ』でポール・ニューマン本人が所有していた個体が約20億円で落札されて以来、手巻きのコスモグラフ デイトナ全般の価格が飛躍的に上昇し、人気は絶頂を迎えた。その一方でヴィンテージモデルにはより厳密にオリジナリティが求められるようになった。それはル・マンについてもしかりで、たとえ文字盤が正しいものであっても、全体のオリジナリティが損なわれていれば、評価は激減する。それとは対照的に、パーツの整合性が取れた個体の評価は高く、良質な個体に関しては価格は安定している印象だ。

競合だったオメガやロンジンと争い、そして“コスモグラフ”という造語から察するに、当時の宇宙開発競争にも乗り出していたであろうコスモグラフ デイトナ。カーレースの世界に参入することに勝機をみいだしたロレックスの威信をかけたこのレーシングクロノグラフは、発表から数十年の時を経て、有識者たちに“再発見”されたことで、改めて特別な輝きを放つに至った。

生粋マニアによるル・マンのディテール解説

フォーミュラ1のモナコグランプリ、アメリカで開催されるインディアナポリス500と並び、世界3大レースのひとつに数えられるル・マン24時間レースは、フランスのル・マン近郊で行われる四輪耐久レースである。2023年は、この偉大なレースの100周年を数えるアニバーサリーイヤーであると同時に、コスモグラフ デイトナ誕生60周年にあたる節目の年でもある。これを記念して、ロレックスはコスモグラフ デイトナ 18Kホワイトゴールド仕様のスペシャルエディション、Ref.126529LNを発表し、世界中のデイトナファンを熱狂させた。

今でこそ世界で最も有名なクロノグラフとなったコスモグラフ デイトナだが、成功までの過程は決して平坦な道のりではなかった。とりわけ手巻き時代のデイトナのディテールの変遷には、かつてない防水クロノグラフを目指し、ロレックスの開発チームが試行錯誤していた痕跡が見られる。ル・マンはロレックスにおけるレーシングクロノグラフの原点となった存在で、そもそも前述の古い広告のなかで“ロレックスの新しいクロノグラフはル・マンと呼ばれている”という一文とともに掲載されていたことに由来する、デイトナのファーストモデルであるRef.6239の最初期型につけられた通称だ。ル・マンの文字盤にはブラックとクリームホワイト(後者は特に希少性が高い)があり、1963年にのみ製造された。それゆえ、希少性においてはポール・ニューマンダイヤルを上回る。ヴィンテージロレックスに特化した専門店リベルタスのスタッフである中嶋琢也氏の見解によると、ル・マンの主な特徴として、以下のポイントが挙げられるという。

「ル・マンとほかのRef.6239では使用しているパーツに大きな違いがあります。そのひとつがステンレススティール製のタキメーターベゼルです」

Ref.6239の製造期間は1963年から1970年と比較的長い。その理由から製造年によって細かなディテールの違いがある。ベゼルは3種類あり、ル・マンに装着される時速300kmまで計測できる最初期のタキメーターベゼルには、そのほかのベゼルにはない“275”の数字が刻まれる。

「文字盤の6時位置にある“ダブルスイス”と呼ばれるふたつのSWISS表記、長く細い時・分針、これらもル・マンならではの特徴です。クリームホワイト文字盤について言及すると、クロノグラフ秒針がブルースティールのものもあり、デイトナの歴代モデルのなかでも際立った存在があります。“92…”から始まる6桁のシリアルナンバーであることも確認すべき重要事項です」

これ以外にも、夜光塗料にトリチウムを使用したことを意味する12時位置の“アンダーバー”の表記もマニア心をくすぐるデザインとして人気がある。

自身もブラックダイヤルのル・マンを所有する中嶋氏は、その魅力について次のように語ってくれた。「これはデイトナだけではなく、サブマリーナー、エクスプローラー、GMTマスターなどのファーストモデル全般に共通することですが、ロレックスの開発に対する意気込みがひしひしと伝わってきますよね。ル・マンについては、ただただ美しいと感じる優れたデザインに引かれています」